けものフレンズ、天地。たつき監督、神。資本主義、科学。
はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
旧約聖書『創世記』より
かつて人類は自然とともに悠久の時を過ごしていた。大自然と調和し、人類そのものが自然の一部であり、食物連鎖の歯車の一部であった。まだ科学など無い時代である。人類は二足歩行に始まり、道具を使い始め、集落を作り、耕作を始めた。その過程で人類は知恵という大きな武器を手に入れ、発達させ、種はより繁栄した。
そして知恵を得た人類は様々なことを考える。死生観や天地の始まり、等である。当時の人類にとっては難題であり、またその解を得るにはあまりにも文明は未発達だった。しかし宗教はそれらに明確な説明を与えた。人々は自分達の制御出来ない、認知し得ない事象を司る超自然的な存在、神を崇め奉った。またある時は、悪事を働くと「神が見ている。」「神の裁きがくだる。」といったように、人々は神の視線を感じることによって道徳心を養った。宗教は人類の調和を保つ役割を果たしていたのである。その時、神はまだ人類の手の届かないところにいた。
そして時代は進み、科学が生まれた。その科学は、昔ともに過ごしていた自然に対し牙を剥き、多大なる犠牲を払いながら人々の生活を格段に豊かにした。人口も加速度的に増えていくようになった。また、科学は昔人類が説明し得なかった様々な事象に理論的な説明を与え、あらゆる物事が唯物的にアプローチされた。その結果、人類の知恵は猛烈なスピードで増え、当たり前ながら人類の知らないことはその分だけ減った。
その結果、何が起こったか。神が司る範疇が減ったのである。様々な事象を説明してくれた宗教の役割は減った。人類はかつて神が司っていた範囲にまで手を伸ばし、解析し、研究し、人類のものとしていった。まさに人類は科学をもって神を”殺した”のである。人類の調和を保っていた宗教の果たす役割はかつてのそれより大きく減ったと言わざるを得ないであろう。これが一概に悪いことだと言うつもりは毛頭無い。確かに、人類の叡智は増え生活は豊かになったのだから。ただ、このような犠牲があったことは念頭に入れておかねばならない。
時は現代、日本。ここにも1人の神がいた。
────────たつき監督である。
たつき監督という創造神が中心となりジャパリパークという理想郷を作り上げた。
現代日本。TVをつければ暗いニュースが流れる。日本の自殺率は先進国では最悪のレベル。厳しい残業。低賃金。かつてあれ程の栄華を誇っていた日本の富は、もう存在しない。社会人を取り巻く環境は決して良いものでは無かった。そんな時、現実逃避の先としてあまりにも優秀な理想郷が現れた。ジャパリパークである。ここジャパリパークは理想郷と呼ぶにはあまりにも理想郷で、そして非常に理想郷だった。
そもそもジャパリパークとは何か。アニメ「けものフレンズ」に登場する舞台のことである。サーバルちゃんやかばんちゃんといった登場人物達がここジャパリパークでどったんばったん大騒ぎする。ここでは”ヒト化”した動物、通称”フレンズ”と呼ばれる者達が至極平和に暮らしていた。
サーバルちゃんはかばんちゃんのありとあらゆる側面を肯定してくれる。(例:すっごーーい!)何があっても怒らない。(例:そんなことないよ!)非常にIQが低い。(例:わかんないや!)そして、他のフレンズ達もどんな場面でも楽しむ心を持っている。(例:たーのしー!)そしてフレンズ達は助け合う強調性があった。(例:困難は群れで分け合え)
そう、ジャパリパークには現代日本に足りないものが次から次へと現れるのである。全てを肯定する包容力、全てを許す寛容さ、難しいことを考えないラフさ、どんな場面でも楽しむ能力、助け合いの精神…等々。それらは日々を過ごすのに必死で張り詰めていた日本人の心を解きほぐしてくれる。
人々はジャパリパークに助けを求めた。すると、ジャパリパークは求められた助けの分だけ人々に助けを与えた。ジャパリパークは万人に開かれていた。確かに、人はジャパリパークにいる時はフレンズ達に優しく包み込まれ、あらゆることを忘れさせてくれる。ジャパリパークには権力も地位も政治も無い。暴力もSEXもドラッグも無い。彼ら全てが平等だった。日々のトラブルやストレスの原因となるものが一切排除された世界、まさに理想郷。ジャパリパークの平和は未来永劫続くと思われた。
アニメ「けものフレンズ」の放送が終了して半年近く経った。しかしその勢いは未だに衰えるところを知らない。イベントが次々と開催され、コラボ商品が販売され、ニコニコ動画のけものフレンズ1話は再生回数1000万回を突破した。”けもフレ”は人々の心の深くに根を下ろし支え続けていた。これは最早宗教と言えるだろう。確かに、けもフレは宗教としての役割を果たしていた。たつき監督という唯一神が作り上げたけもフレという宗教という構図である。私もその熱心な信者の1人だ。
しかし先日、この完璧かと思われた理想郷に大きな不穏を生み出す事件が起こった。発端はたつき監督のこのツイート。
突然ですが、けものフレンズのアニメから外れる事になりました。ざっくりカドカワさん方面よりのお達しみたいです。すみません、僕もとても残念です
— たつき/irodori (@irodori7) 2017年9月25日
そのツイートの日付から9.25けもフレ事件とも呼ばれるようになった悪夢。
信者は怒り狂った。何しろ、神が降板されるのだ。一企業など、神の前では取るに足らない存在。何たる不敬。一体何があったのか。
カドカワ側の大まかな主張「ヤオヨロズ(たつき監督を含むアニメ制作会社)側から8月で辞退したい旨を受けた。また、情報共有や連絡無しの作品利用が見受けられた。」
しかし、辞退したい旨に関してはたつき監督の発言と矛盾し、また作品利用に関しても許可は取っているとしている。そして、かつてたつき監督による2期の作成も確約されていた。
細かなことは当事者以外何もわからない。ファンの間では様々な憶測が飛び交っている。しかし、重要なのはここからだ。ジャパリパークという理想郷に愚かな人間による権利問題を始めとした資本主義が介入した、これが1番の問題なのである。けもフレにおいて、中心となるべきはフレンズ達であり人間の出る幕は無い。
けものフレンズが金を生むためのビジネスとなってしまった。確かに、一制作会社が作り世に送り出した作品だから勿論元々そうなのだが、宗教的な役割を資本主義的な役割が上回ってしまったのが問題なのである。
具体的に何が問題なのか。例えば、もし今後別の監督によるけものフレンズ2期が制作されたとしよう。すると、かつてのジャパリパークに住んでいた信者達の目線はこうなる。「たつき監督ではないジャパリパークに用は無い」「どうせかつてのけもフレは戻ってこないんだ」「たつき監督時代と比べて悪いところを探そう」そう、信者達は疑心暗鬼で作品を見て、あまつさえ粗探しさえ始めてしまうのだ。これで果たして理想郷として機能するのか。結果は明らかであろう。
これは勿論信者にとって悪いことだし、たつき監督本人や製作陣どころか新たな監督にも良いことが何1つとして無い。カドカワの欲しがった作品全体としての利益にすら繋がらないことは火を見るよりも明らかである。誰も得しない。資本主義により理想郷は失われ、たつき監督という”神”が殺されるのである。
先程の神と宗教の例では、これは一概に悪いことだというつもりは無いと述べた。しかし、これに関しては凶悪であると強く主張する。今回のこの件との相違点は何か。舞台である。神と宗教が科学によりその役割を減らしたのは現実世界であり、しかし人々は豊かさを手に入れた。だが資本主義によりその果たす役割を減らされたジャパリパークは理想郷であり、そして誰も得をしていない。ここが1番の相違点であり問題である。理想郷なので資本主義も科学も必要無いのだ。
このように、多くの人間達が理想郷としていたジャパリパークに資本主義が関わることにより、瞬く間にその理想郷としての役割を減らした。資本主義は確かに人々の生活を豊かにしたがこれを理想郷に持ち込むことは愚の骨頂である。ありとあらゆる場面に資本主義が介入している裏ではこのような実害も出ていることを知らねばならない。今日、私達は資本主義に対する考え方を改めないといけないのかもしれない。
自己紹介:世界的なブロガーになりました。
FGOというゲームを始めた。感情と引き換えになるとは知らずに。
虚無。
ただただ虚無。
今私は大海原にいる。波の音に混ざって頼りない小舟からは小さな揺れに合わせて軋む音がする。濃霧が立ち込めていて周囲は見えない。どこに向かっているのか、どこから来たのかさえもわからない。しかし焦りや怒り、悲しみといったものは一切無い。感情が無いのだ。いや、正確には失ってしまったと言うべきなのかもしれない。わかっていることは、乗っている小舟がどこかに進んでいるということだけだ。ここはどこだ。どうしてここにいるんだ─────。
今やFGOのプレイ人口というのは凄まじいものがある。Twitterを開くと1スクロールで1ツイートは絶対にFGOのプレイ画面のスクショが現れると言っても過言では無い。そのツイートのTLに占める割合から恐らくフォローしている人の7割はFGOをプレイしていると思われる。否、FGO関係のツイートをしない人、そもそもツイート自体ほとんどしない人のことも考慮すると9割は下らないだろう。世は大FGO時代である。
FGO…”Fate/Grand Order”
あまりにも多くの人間がその魔力に惹き寄せられ、また数万円を当たり前のようにつぎ込むほどに魅了されてしまう。その魔力とは一体。
FGOを始めたきっかけは、「身の回りのFGOプレイヤーが数万円の課金が当たり前の世界に住んでいるので絶対にFGOは始めないぞという気持ち。」(うろ覚え)というようなツイートをしたことにある。すると、生粋のFGOer達が食い付いてくる。「今は期間限定でガチャがたくさん引けて〜」「今始めると星4のキャラで好きなのが選べて〜」「俺は課金せずに今までやってきて〜」。彼ら彼女らのそのプレゼンに、いつしか私は心を奪われていた。一体何が彼らをそうさせるのか。”FGO”とは。
それでも数日間は悩んだ。果たして始めていいものだろうか。しかし自制心が好奇心に負けた時、気がつくとインストールしている自分がいた。確かめてみよう。
そもそもFGOとはどのようなゲームなのか。始めて間も無い私がめちゃくちゃ簡単に説明するとこうなる。
”主人公がサーヴァントと呼ばれる者達に指示をしていい感じにしていくゲーム”
あまり多くを語ると知識が無い現時点ではボロが出てしまうかもしれないのでこうとしか言えない。とにかく、(恐らく)凄く魅力的な作品なのである。
FGOを始めるにあたり、1つの目標を立てた。
「どうもマーリンというサーヴァントが最強らしい。この世界ではトップに君臨しているマーリンが暴政を敷いていて、他のサーヴァント達を顎で使える立場にあるらしい。マーリンの言う事は絶対で、逆らう者がいようものなら容赦無く磔にされるらしい。そして今はこのキャラが出る確率が高いらしい。そうなったらもう選択の余地は無い。マーリンが出るまでリセマラをしてこの世界の唯一神となりこの世界を蹂躙しよう。」
リセマラをご存知だろうか。リセマラ=リセットマラソンの略。多くのゲームでは、始めると同時にガチャを引いて様々なアイテムや味方を手に入れるできる。そのままゲームを続行しても良いのだが、いかんせんガチャを引くには課金が必要だったり無課金でも引ける頻度が低かったりする。そのため、ガチャの引きが悪かったりした時にアンインストールして再びインストールし、ガチャをする。これをガチャの引きが良くなるまで続ける。およそ一期一会などという概念とは無縁の行為である。そこには何としても出会わなければいけないという執念がある。
早速、インストールして始めてみる。すると、すぐにゲームデータのインストールが始まる。これが結構長い。というか、アプリをインストールした時点で入っとけよ。まあ寛大なのでこれぐらいのことは眼を瞑ろう。ゲームスタート。模擬戦がある。なるほど、ここで戦闘の方法を体に染み込ませてから戦場に送り込んでやるということか。粋な計らいじゃないか。序盤からマシュという可愛い女の子が登場して主人公を色々リードしてくれる。これ以上の説明はゲームの内容に深く関わってくるので割愛する。是非インストールしてその目で確かめて欲しい。今回書きたいのはそこでは無いのだ。
いくつかクエストをこなすとガチャを引くことが出来るようになる。確かに、チュートリアルガチャで10連、通常ガチャを10連引けた。現在は「1000万ダウンロード突破記念」らしい。何が1000万ダウンロードだ。実際のプレイ人数はその何分の1だ?1人当たりのダウンロード回数は?と小言を言いながらも新たな世界に足を踏み入れることに心を躍らせている自分がいたのも事実だ。
早速引いてみる。様々なサーヴァントや概念礼装といったものが出てくる出てくる。他の人のツイートで何度も見た画面だ。不思議な気持ちである。私自身、初めてプレイするのにお馴染みの画面なのだ。「英霊召喚」、「概念抽出」といった見慣れた文字が現れる。案外あっさりマーリンを引いて終えるつもりだった─────が、出なかった。1回目のリセマラ、20連の終了である。どうという事は無い。まだ1度目なのだ。
しかし、ググってみるとどうもまだリセマラは終わりではないらしい。引いたサーヴァント達を生贄にもう1度ガチャを引くことが出来るという。”霊基変還”という残酷なシステムである。むごい。むごたらしい。サーヴァント達はセリフこそ違えど皆、意気揚々と登場してくる。これから頑張ろうと意気込む者、協力してやらないこともないけど?みたいな態度を取る者、奇声を発する者、はたまた無言の者、違いはあれど各々その目には光がある。希望がある。来るべき運命に立ち向かわんとする意志が見て取れる。少なくとも、そのように感じる。しかし、彼らに対し主人公は残酷な決断を下す。そう、”霊基変還”である。具体的に何をやっているのかは私にもわからない。しかし、サーヴァント達はその”霊基変還”という行程を経て”マナプリズム”という物体にされてしまうのだ。目を閉じれば、泣き叫びながら黒服の男2人に奥の部屋へと連れ去られて行くサーヴァント達の悲鳴が聞こえる。瞼の裏にはその後ろでほくそ笑んでいるマーリンの姿が見える。しばらくすると小さなお盆のような物に乗せられて”マナプリズム”が運ばれてくる様子がありありと浮かぶ。それは最早サーヴァントではない、意思の無い”物”と化していた。動かない。喋らない。彼らは”霊基変還”をされる時、一体何を思い何を感じたのか。そしてそのような尊い犠牲を払って得たマナプリズムを20個集めると呼符と呼ばれるものが手に入る。
この呼符でもう1度だけガチャを引くことが出来る。しかし、これもマーリンでは無かった。今度こそ1度目のリセマラが終了した。色々と思うことがありながらも、アンインストールし再びインストールした。リセマラ2回目突入。今度こそ、と思ったがこれもマーリンが引けない。渋々アンインストール、インストール。3回目、引けない。アンインストール、インストール。4回目、5回目………。
最初は、ストーリーも全部見てた。期待に胸を膨らませてガチャを引き、その行く末を見守っていた時期もあった。
だがこれを繰り返しているうちに、気が付くと、怒りを覚えていた。FGOに対してではない。自分に対してである。リセマラを繰り返しているうち、やめようかと思うこともある。しかし、リセマラをやめるのは即ちそれまでリセマラに費やした時間を無駄にするということである。すると、そもそも何故FGOを始めてしまったのかということになり、それは過去の自分に対する怒りとなる。何ということをしてくれたのだ。
もう良い…マーリンじゃなくても良い。星5であればリセマラを終えよう。そう思い始めた。
もう何度繰り返しただろうか。同じ光景の繰り返し。指の動きの無駄は一切無くなり最適化されてきた。当然、そこにゲームを楽しもうという意識が介在する余地は無い。効率至上主義。最短最速。資本主義。いかに短い時間で最大限の効果を得るか。未だにマーリンはおろか、星5すら出ない。
そして、更にこれを繰り返すと怒りすらも無くなった。怒りに意味が無いと自身で気が付くのだろう。そのうち、この行為に感情を抱くことそのものに意味が無いという境地に達する。虚無の到来である。
いつしか全ストーリーはスキップ。インストールする。開く。データダウンロードをする。模擬戦。名前を決める。クエストを通して2戦。チュートリアルガチャ10連。またクエスト。通常ガチャ10連。サーヴァント達をあの世に送る。尊い犠牲を払って1回ガチャ。アンインストール。この一連の作業をすることにいつしか感情が無くなっていた。漫画を読みながら、小説を読みながら、映画を見ながら、ドラクエ11をしながら、PSPでファイナルファンタジーをしながら、片手間でやるようになっていた。
そもそもFGOを始めたと言って良いのかどうかすらわからない状況である。これは始めたと言って良いのだろうか。永遠に物語の最初の最初を繰り返しているだけではないか。始まりのある森羅万象には終わりがある。だが、この作業における終わりとは何なのだろうか。マーリンを引くことか?じゃあマーリンを引けなかったら終わりは無いということか?それは森羅万象の理から外れてないか?始めるって何だろう…?始めるとは…と哲学的な自問自答を繰り返しながらも手は勝手に動いている。もちろんそこに意思は無い。ただ、引くのである。
1%の確立で星5が出るらしい。本当だろうか。もう数百という規模でガチャを引いている。受け入れ難い不運。
先人曰く─────”10連引く金でアフリカの子供達が10連引ける”。
また先人曰く─────”当たるまで引けば100%当たる”。
どちらもかつて私が実際にTwitterのTLで見かけた言葉である。今ならわかる。彼らは偉人である。私のような人間では到底辿り着けない領域に、彼らはいる。彼らをしてそこまで言わしめるFGOとは。そして何が彼らをそこまでの高みに引き上げたのか。今の私にはそれを理解することすら出来ない。完全に雲の上の人物達だ。
先日、とうとう夢の中でマーリンを引いた。文字通り「夢にまで見た」マーリンとなってしまった。私にはあまりにもその存在が遠過ぎた。
果たしてこの先に何があるのか。そして何かに達した時、私は何を得て、何を思い、何を考えるのか。
皆もこの過程を経てFGOをプレイしているのだろうか。
行き先も意思も無い虚無の海へ、今日も漕ぎ出す─────。